風が吹いて飛ばされそうな
軽いタマシイで 他人と同じような幸せを信じてたのに
スピッツの『楓』の歌詞である。
この愛くるしいおじさんたちは様々な名曲を残しつつも、今もなお独特な世界観を保ちつつ、自分たちの色を変えない姿勢が素晴らしい。
ふとした出来事を綴る。
ある日パック型のアソートゼリーを食べていた。
8個入りの。
一つ一つが小さいのでフタを開けてすぐ口元に運び一瞬の吸引力でゼリーを全て吸い尽くす。
最後の8個目を食べようとフタを開け、一瞬で吸い尽くそうと口元へ運ぶ。
ここで作用される吸引力など一定のものだ。
しかし、8個目という最後の最後で底の方に少しゼリーが残ってしまった。
ここまでの7個は流れ作業のようにすぐに食べることができていた。
だが8個目にして思わぬ状況に陥ってしまい些細なことだとわかっているにも関わらず動揺してしまった。
こんな数分間の出来事だったが様々な日頃当たり前のようにしている行動に対してちょっとしたイレギュラーが発生した場合、余裕を持って対処できるのかと不安になった。
いつだって"余裕"のある人間になりたい、そう思いながら人生を過ごしてきたつもりだったが当たり前の日常を破壊された時、その人がどれだけ"余裕"を持って行動できるのか問われる瞬間だと思う。
その"余裕"とやらはどうやったら生まれるのか。
大きな暗闇の中、手探りで物を探すかのような壮大な疑問の答えに辿り着くには時間を要する。
でも、この探している間の時間と探そうとする努力が人を成長させているのかもしれない。
何事も己が納得する答えに辿り着くには時間と努力がいる。
それをすぐに見つけ出す人もいれば何年も何十年もかかる人もいる。
いずれにせよ答えを見つけ出す姿勢がいるのかもしれない。それはチャレンジでもある。
余裕のある人間は常にチャレンジし続けているのだろう。
チャレンジする余裕さえそこにはあるのだから。
そんなことを考えながら底にたまった少しのゼリーを必死でほじくりだしていた。
サラバ、またいつの日か。