唐突に始めたブログ

歌詞の可視化

結局何処へも行けやしない僕らは

冬の風に思わずくしゃみをした

 

King Gnuの『小さな惑星』の歌詞である。

 

CEREMONY

CEREMONY

  • 発売日: 2020/01/15
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 

 

King Gnuばっかりですみません。

でも彼らのセンシティブな歌詞はどれも魅力的で心酔してしまいがちです。

 

 

 

1日の始まり、雨が降っていると憂鬱になってしまう。

何回も経験しているはずなのに、慣れる気配が無い。

 

止まない雨はないと言うけれど、こうも連日降られてしまうと陰気になりがち。

 

 

他人に関心を寄せていられるうちはまだ精神には余裕があるはず。

人が本当に目の前が真っ暗になった瞬間は自我を保つことすらままならない。

 

たかが人間、されど人間。

人に向ける憎悪はものすごく簡単に届いてしまう。

 

そのままにしておくと規制がかかってしまう。

奥ゆかしい人種だからこそ、繊細だし素直ではない。

 

善悪の判断に自信がない僕だが、善悪の基準には100%どちらかに偏ることはほぼないと考えている。

 

全ての物事は何か動機があってアクションが起こされている。

それが故意ではないにしても"無意識に"してしまうことは誰しもある。

 

たかが人間、されど人間。

行動や言動に愛を注げば人の気持ちに届くはず。

 

たくさんの人が幸せな気持ちになれる世の中を。

悪いことを考えている奴には罰を、そして猶予を。

 

 

自分が持つ正義感なんてちっぽけなものと考えれば、様々な人間に興味を持つことができる。

 

まずは自分の精神衛生が良くなるために色々捨ててみるのはいかがですか?

 

本当に本当に惜しい人を亡くす前に。

 

 

 

 

サラバ、またいつの日か。

 

 

永遠に生きられるだろうか

永遠に君のために

 

銀杏BOYZ『BABY BABY』の歌詞である。

 

君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命

君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命

  • アーティスト:銀杏BOYZ
  • 発売日: 2005/01/15
  • メディア: CD
 

 

BABY BABY

BABY BABY

 

 

冴えない学生時代を送ってきたロック好きには染みる曲が多いと評判だが、それ以外の方も是非聴いて欲しい。どれもこれもセンスがいい。

 

 

 

色んな視点から眺めた青春はどれもこれも羨ましくて、人が輝いている瞬間に焦燥感を抱きながらも自分の殻に閉じこもっていた学生時代。

 

最近よくネットで公開されている恋愛小説を読むことにハマってしまっている。

どう自分を客観視しても似合わないことはわかっているがハマってしまっている。

 

正直こういうものを見ている人間に上から目線で小馬鹿にしていた自分を殴りたい。

俗物も甚だしい。

 

胸をときめかせる事がなかった学生時代、家ではゲームをするか可動フィギュアをいじって遊んでいただけだった。

高校卒業までほぼほぼ変わっていなかったこのルーティンと化した遊び習慣を今考えると呪ってやりたい。

 

もっと外に出ていれば、様々な出来事に出会えたかもしれない。

たらればで済ませているが、価値観の幅は大きく広がっていたに違いない。

 

斜に構えて外の世界を敬遠していると、たくさんのチャンスを見失うことになってしまう。

素直に勇気を持って、前進することの大事さを恋愛小説を通じて痛感している23歳の春であった。

 

ステイホーム週間。大事なことだ。

収束に向かう事ができたら、子供達はたくさん外で、そして仲間と青春を味わって欲しい。

 

僕が見つけられなかった青春を代わりに見つけてきておくれ。

 

 

 

 

サラバ、またいつの日か。

 

大人になんてなりそびれたままでいいの

King Gnuの『It's a small world』の歌詞である。

 

 

Sympa(通常盤)

Sympa(通常盤)

  • アーティスト:King Gnu
  • 発売日: 2019/01/16
  • メディア: CD
 

 

どハマりした。MVの世界観がいい。ノスタルジーな気持ちにさせてくれる。言葉の羅列を滞らせるほどの曲だ。

 

 

昔より声を挙げやすくなった現代。

 

言葉が好きだ。

言葉はなんでも表現する事ができる。

言葉1つで人の感情をどこまででも動かせる事が可能だ。

 

このブログでも好きな歌詞を抜粋し、そこに込められた意味を深く読み取り、自らの想いを綴る。

 

悪口だって、決して100%害があるものとは限らない。

それを受け取った側が糧にして、己の成長に繋がる道もある。

 

悪口を笑いに昇華する事だって可能だ。

互いの信頼関係が成り立っており、尚且つそこに愛がある前提だ。

 

そこにはどこか照れがあり、恥ずかしさが混ざり合い、その2つの要素は互いが積み上げてきた信頼関係が生み出したアミューズメントでもあり、人々を魅了するショーにもなる。

 

きっと時代はいい方向に向かっているのだろう。

その分、たくさんの言葉が葬られている気もする。

 

言葉をそのまま鵜呑みにするのではなく、言葉の中に内包されている意味や考えを信じるように。

 

だからこそ今、この声を挙げやすくなったご時世、言葉をより丁重に扱うべきだ。

 

 

 

 

 

 

インターネット上であれ、いきなりタメ口で話してくる奴とは絶対に絡みたくない派です。

あーYouTubeのコメ欄。

 

 

サラバ、またいつの日か。

 

 

 

まちがいさがしの間違いの方に

生まれてきたような気でいたけど

 

菅田将暉の『まちがいさがし』の歌詞である。

 

まちがいさがし

まちがいさがし

  • 発売日: 2019/05/14
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

まちがいさがし

まちがいさがし

  • 菅田 将暉
  • J-Pop
  • ¥255


喋りもお上手で歌もうまい俳優が米津玄師とタッグを組む暴挙に出たシングルだ。

このコラボは全く間違いが無い。

 

 

気がつけば2020年。

"AKIRA"のストーリー通りに東京オリンピックが開催されることとなった日本。

東京の様子を見ると、ただでさえ整備されている道路をさらに整備し、各国を受け入れる準備を進めているように伺える。

 

 

オリンピック。

自分が心から純粋にスポーツを応援できるようになるのはいつなのだろうと最近思う。

 

昔から運動神経が全くなく、スポーツをするのが苦痛であった。

 

周りのフォローも虚しく、足を引っ張ることが多くあった。

自責の念を抱くだけで解決するのであれば良いのだが、これを理由に心ない発言を浴びせられた経験も少なくない。

 

スポーツを通じて嫌な思いをすることが青年期に多くあったため、オリンピックを観ていてもイマイチ気分が盛り上がることはない。

 

応援したい気持ちはあるのだが、観ていると心の中でモヤモヤした気持ちも同時込み上げてくるので、自国であろうがそっとチャンネルを変えてしまう。

 

こんなことを綴ってしまうと多くのスポーツファンにお叱りを受けてしまう気しかしないのだが、全員が全員スポーツを応援できる心持ちにはなっていないことを知っていただきたい。

 

そして、スポーツマンは目に見えない比較をする相手をよく考えてほしい。

 

 

スポーツを通じて嫌がらせや虐められた経験がある人間も存在するため、オリンピックにおいての自国の応援を強要するのはあまり良くないと考えている。

 

 

スポーツマンシップは、スポーツを観る側もプレーする側も何も関与していないものも持つべき全ての姿勢とも感じる。

 

 

 

 

 

サラバ、またいつの日か。

 

 

 

誰かのために生きるのなら

正しいことばかり言ってらんないよな

 

King Gnuの『白日』の歌詞である。

 

白日

白日

 

 

 

紅白おめでとうございます。

ラジオのリスナーなのでとても嬉しいです。

テレ朝とNHKは違うので呉々も気をつけてください。

 

 

令和元年が終わろうとしている。

主はiPhoneユーザーなのだが、アップデートを随分と怠っているせいか "令和" の変換が一発で出現しない。

時代に取り残され始めているのかもしれない。

 

 

ネットおいて、プロパガンダが娯楽に侵食されているのを目撃すると悲しい気持ちになる。

気が狂ったかのように政治家や公人を批判し続けて、代替案もなく誹謗中傷を繰り返しているアカウントを見かける。

 

自分の今の生活が満たされていないことに腹を立てているのであろうか。

 

日本人はつくづくSNSの使い方が下手だと思ってしまう。

かく言う僕自身も嫌な事があったりするとついついその時思った感情を文字に起こし、ネット上に公開してしまうという愚行をこなしてしまう。

 

韓国では、ここ数年でSNSの批判コメントに対して気持ちが病んでしまい、自殺してしまった芸能人が30名ほどにも登ったそうだ。

 

近いうちに日本でもこんな事が頻繁に起こってしまう日常が訪れてしまうのかもしれない。

 

 

あんまり悲しい事ばかり書きたくはない。

 

アンタッチャブルの復活劇には腰を抜かされた。

10年のブランクがありながらもあれほどキレのいい漫才を披露されると、絆の固いコンビのパフォーマンスに時間の足枷というものは関係ないと思わされた。

 

アンタッチャブル然り極楽とんぼ然り、不祥事があったものの長年の時を経て復活するコンビには度々笑いと同時に涙も込み上げて来る。

 

今回は無告知で深夜番組にさらっと復活を遂げ、SNSでバズる流れになっていた。

 

テレビという昔からある古い娯楽の箱と、ネットという新しい娯楽の空間が最高にマッチングした夜だった。

 

 

 

 

これを何かの陰謀による報道の打ち消しだと唱えるものがいるならば、こんな最高な陰謀ニュースをありがとうと伝えてくれ。

 

 

 

 

 

 

サラバ、またいつの日か。

 

 

 

 

 

 

 

 

ありったけの金を握りしめ 泥だらけの靴で飛び出した

BOØWYの『"16"』の歌詞である。

 

久々のBOØWY

自分が16歳の時こんな歌詞のこと考えてすらいなかったと回想。

 

 

BOΦWY THE BEST

BOΦWY THE BEST "STORY"

 

 

16

16

 

 

 

前述の通り、ふと10代の時自分が何をしていたか回想していた。

 

昔から窮屈な環境で考える時間を強いられることがとても苦手であったため、テストが本当に嫌いであった。

 

問題に対して答えを導き出すのに沢山の考察を捻り出す。

その行為をたった1人机の上で繰り広げている。

それが大きな教室という箱の中で何十人とそれぞれのパターンがあり、あらかじめ答えが用意されている答案用紙を埋めていく作業をし、点数化され比べられる。

 

はるか高い逆らえない何かに抗いつつもただ従うしかなかったことが窮屈だった。

 

答えが決まっていることもそもそも理解できなかった。

 

その割には世間でありふれている言葉にはよく「人生に答えなんかない」

とかいう謳い文句をよく耳にする。

だったらなぜこんな幼い頃から人間は答えを求める作業を繰り返すのだ。

 

こんなしょーもない事を考え続けていた10代であった。

その頃の俺に言ってやりたい。

 

そんなこと考えるプライドを早く捨てろ。

後々苦労するぞって。

 

 

 

あとテトリスをしている時間がとても好きであった10代だった。

 

ご存知の方が多いだろうがピースをストックできるシステムがある。

それを使用せず、どこまで行けるのかという無駄なプライドと謎のストイックプレイに挑戦していた。

 

最近また時間があるとテトリスをやるのだが、そのストックシステムが本当に役に立つ。

 

無駄な縛りは時に自分を苦しめ成長を止める材料になる事を学んだ。

 

 

 

プライド捨てられたらラクだなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サラバ、またいつの日か。

 

 

 

 

 

 

 

 

気付けばホラ‼︎

僕の中にあるいくつかのモノは

もう過去と比べられて

 

ONE OK ROCKの『20 years old』の歌詞である。

 

 

20 years old

20 years old

 

 

20 years old

20 years old

 

 

この歌詞をボーカルのTakaは当時20歳で書き上げたからすごい。この時から今でも健在なカリスマ性は出来上がっていたのだと思う。

 

 

 

居酒屋でアルバイトをしていた時。人によってはそんなことでイライラしてたら寿命縮むよ?と言われてしまうだろうが僕にとってはとてつもなく許しがたいこと。

 

それは、お客さんに「おい、にいちゃん!」と呼ばれること。

 

店員とお客さんというその場の関係があるのは重々承知なのだが、一時的なものであれタメ口で喋りかけられることでさえ苛立ちを覚えてしまう性分なのだ。呼称を"にいちゃん"とするお客さんだけは本当に許せない。

 

"すみません"と声をかけるか手をあげたりしてアピールするという店員を呼ぶのには様々な方法がある。

 

そんな中でも"にいちゃん"と店員のことを呼び、結んだ覚えもない血縁関係を突然露呈されたかのようなシチュエーションが成立することに怒りを感じる。

 

こんなことを難しそうに書いてるなんてしょうもないと言われるかもしれないが、しょうもないという事実も重々承知である。

 

間違いなくエネルギーの使い所がおかしいと自分でも感じつつも、冷静に怒りを分析する時間を設けてみた。

 

この怒りは歳をとれば解決するものなのか?

はたまた自分の沸点が極端に低いからなのか?

 

 

しかし答えに辿り着く事はなく、いくら高齢の方にもタメ口で"にいちゃん"と呼ばれる事に躊躇ってしまい、同時に怒りが湧き上がってくるのは変わらなかった。

 

数日前の話。年季の入った外観の蕎麦屋に立ち寄った。そこの店主はかなりの老齢だったが物腰柔らかな接客態度をしていた。

 

注文しようと手を挙げると

「お兄さん、今日は何食べる?」

 

これだ。

 

勝手な解釈による答え合わせに成功した。

 

"にいちゃん"を"お兄さん"に変えるだけでこんなにも、ましてや店員とお客さんという立場を考慮しても会話が自然に受け入れられた。

この会話の振り方は相手が自分より年下の男性でも許せる。

 

馴れ馴れしさの基準値として自分が設けてた線がやっと理解できた瞬間モヤモヤが消えた。

 

言い方や態度の問題など他にも考えなければならない点もあるだろうが、同じ意味合いとして使っている呼称を少し変えるだけで聞き手側の気持ちがこんなにも楽になるという日本語マジックに感嘆とした最近だ。

 

 

モヤモヤが消えた暁、蕎麦を美味しく食べていると目つきが悪く店内に入るなり大声でケータイ片手に会話をしている作業着を着た中年男性が現れた。

 

「おい、じいさん!いつもの蕎麦時間ねぇからはよ作ってくれ」

 

 

 

モヤモヤが2倍に膨れ上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

サラバ、またいつの日か。